国道に出ると時々車とすれ違う。ダッシュボ−ドの時計は7時だった。人家の明かりが点々と見えてきた。彼は、「すぐそこだよ」と言いながら小さい道に入っていった。「村」のようだ。前方の大きな「ため池」の水面がキラキラと光っている。彼はスピ−ドを落とし、「着いたよ。ここが‘牡蛎’だよ」と言って車を止めた。パブ・レストランが一軒だけぽつんと建っている。壁に‘牡蛎’と書かれたカンバンが、サ−チライトでライトアップされている。駐車場は広くて明るい。既に数台の車が駐車している。彼は「入るよ」と先陣を切った。ライトアップされた大きなカンバンを見ながら彼の後に続いた。夜のパブに入るのは、今日が始めてである。正面入り口に大きな木製のドア−をがある。彼は慣れた足取りで中に入った。1階は「4人〜6人用」のテ−ブルが8卓程ありほぼ満席だ。壁や天井から黄白色のスポットライトが照らされている。カップルなら雰囲気最高だ。奥の小さい部屋に8人用のテ−ブルがあり、白いテーブルクロスが掛けられている。予約席だろうか、真ん中に一輪ざしの花瓶が置れている。その天井には大きなシャンデリアが「きらきら」と輝いている。まだ空席のままである。入り口にレジのカウンタ−があり、若い女性とボ−イが待機している。彼がボ−イに声をかけると、壁際のテーブルに案内された。
3席のテ−ブルが並んでいて、両側の2席は既にお客さんがいる。彼らは皆機嫌良く飲んで喋っている。彼は「1階は禁煙の部屋です。君もたばこは吸わないからね」と、僕の方を見てニッコリと笑った。入り口の右手に二階(喫煙)への階段が見えている。ボ−イがメニュ−を持って来た。彼はボ−イに「決まれば呼ぶよ」と言った。「注文はありますか。ここは、牡蛎で有名なんだが、今は季節外れでないんだ。ステ−キはどうですか」と聞いてくれた。「肉以外でポピュラ−な食べ物は」と僕、「それなら、タラバの蟹サンドイッチ、シェパ−ドパイにしよう」と提案してくれた。僕は、「シェパ−ドパイ」とは「パイ」なんだろうかと、少々案じながら了解した。そして彼に、アイルランド国産のビ−ルを注文してくれるよう頼んだ。客は中年の人達がほとんどだ。店員は若いが、若い客は少ない。みんな楽しそうに飲んで喋っている。アルコ−ルが入れば大きくなるはずの声も、それほど高くはない。スポットライトのガラスの傘が、赤やダイダイ色で結構カラフルだ。その魅惑的な色が、赤らんだ女性の色っぽさを増している。すぐにビ−ル、皿に盛られた蟹のサンドイッチがきた。彼には、大皿にオムレツとソ−セ−ジ、「ソース」にケチャップとマスタ−ドが添えられている。
ボーイが「シェパ−ドパイ」を持って来た。皿の真ん中に青いレタスが敷いてあり、その上に蒸したジャガイモをつぶして載せている。その上に、味付されたミンチ肉がトッピングされている。「これがシェパ−ドパイですか。パイが来るのかと心配していたのですが」と言うと、ニッコリ笑いながら「僕も、蟹のサンドイッチが好物なんだよ」と言った。向かいの中年の女性達と、僕の目が会ってしまった。すると、彼女たちは、ニコッと笑顔を返してくれた。彼女たちは友達同士のようで、かなり出来上がっている。サンドイッチのタラバはとても甘い。僕は2杯目はギネスを注文した。蟹がタップリ入っていて、「マヨネ−ズ」の味付けだ。彼に「朝食は卵、ソ−セージ、ベーコンと量が多い、そして、夜にこれ程の物を食べると、脂肪ぶとりになりませんか。あなたはスマートだけど」と彼の顔を見た。「大丈夫ですよ。朝は王様、昼は女王、夜は貧乏という格言があるんですよ」と、あっさりしたものだ。格言の意味の予想は付いていたが、「どういう意味なんですか」とあえて聞いてみた。「もし、朝食を多く食べると昼食は普通に、夜は控えめな食事をする事だ」とニコッとした。
彼は少々赤ら顔になり上機嫌だ。「僕の車は、性能が良く快適だ」と自慢した。「日本車は最高だ。僕の同僚達も皆日本製に乗っている。“新しい中古車”で、いいのは200万円以上するんですよ」と不満そうに付け加えた。「日本では200万円も出せば新車が買えます。最近は、レジャ−用の300万円以上の四輪駆動車の人気がある。若者達の中には仕事を始めると、ロ−ンで新車を買うも者いる」と言うと、「そうだろうね。ここでは、そんな車は手にはいらない。車は簡単には買えない高くてね」と目を「クリッ」とした。「でも、強盗などお金の為の犯罪が多発しています。世情は悪いです」と彼の顔を見た。「僕も、金が全てだとは思わないが・・・・」と、何か言いたそうだった。僕は「豊かな緑と静かな街、温かい人間性のある人々。アイルランドの方が「財産」は日本より豊かだ」と心の中で思った。となりのテ−ブルの中年男性が、彼に話しかけて来た。「夫婦」のようで、隣にふくよかな女性が座っている。彼らが話しているのは「ゲ−ル語」なのか聞き取れない。「彼らなりの話」もあるのだろう。その間に、「ぱくぱく」とサンドとジャガイモを食べた。よく飲みよく食べよく話した。客達は帰る気配はなく延々と続きそうだ。私たちは9時前に席を立った。レジの前で、「僕に支払わせて貰えませんか。今日のお返しに」と言うと、彼は「それはだめだ。僕が君を誘ったのだから」と後に引かない。「半、半でどうですか」と言うと、「じゃあ−、オランダに行くか」と彼は同意した。
「オランダに行く」の意味はと僕、「割り勘の事をそう言うんだよ」と彼。そばにいたレジの女の子とボーイが笑っていた。彼らは私たちにニッコリと目で会釈をしてくれた。
ミッドナイト迄営業しているオイスタ−・パブ、今が最も賑やかな時間であろう。外に出ると少し肌寒い。投光器の光が「畑の中の一軒家、牡蛎」をライトアップしている。駐車場は「満車」になっていた。前の池は、あいも変わらず水面がきらきらと光っている。道はパブの明かりが切れた所から、暗闇のなかに消えている。遠くに、家の明かりが点々と見えている。トイレを終えて彼が出てきた。「さあ−、戻ろうか。君のB&Bには10時には着くと思うんだ、街でもB&Bでも送ってあげるよ」と言ってくれた。「案内して貰った事を忘れそうなのでB&Bに帰ります」と返事した。「アラン島にも行きたかったんですが、今回は諦めました」と付け加えると、「最近は観光客が多くて、夏場は島のB&Bも満員で泊まれない事もある」と彼は言った。「ところで、明日の予定は?」と彼、「おみやげや本を買って、昼の汽車でダブリンに戻り、そこで、もう1泊します。明後日はロンドンで1泊し、ヒ−スロ−から日本に帰ります」と答えた。
国道は、たまに車がすれ違うだけで「ブシュン、ブシュン」とエアーブレーキをかけながら走る大型トラックは一台も出会わない。 対向車のライトが彼の顔を照らす、別れが近くなった。彼の横顔を見ながら、「別れの言葉」を考えていた。『蛍の光』の始め部分を少し歌ってみた。「この歌はアイルランド民謡ですよね。小学校の時に習ったんです」と言うと、「いや、その歌はコットランド民謡です」と彼。「そうでしたか、この歌は別れの歌なんですか」と聞くと、彼は穏やかに「別れではなく出会いの歌なんです。出会いがあるから別れがあるんだがね」と言った。「スコットランドは、私たち同様ケルト系住民の国なんですよ」と彼。「僕達日本人は、古い昔からあなたの国(ケルト)と関係があったんですね」と言うと、彼は「日本人からそんな歌を聞けるなんて、考えてもみなかったよ」とちょっぴり嬉しそうだった。彼は、「ところで、あなたがた日本のサラリ−マンはパブに飲みに行くのですか」と尋ねてきた。「1時間〜2時間、食べて飲んで10ポンド前後の居酒屋に行くんです。ほとんど割り勘んでね」と僕、「僕達も同僚と4〜5人でよく行くんだ。困ったことに、いつも梯子酒だ。一晩に3〜4軒廻るんだよ」と、彼はギブアップのジェスチャ−をした。
「いやいや、僕達も同じですよ。時には二次会、三次会と梯子をするんです。僕はほとんど参加せず帰るんですがね」と言うと、「でも、僕達はそれが出来ないだ。その店の勘定を順番に払って行くんだ。4人で行けば4軒行くんだ」と不満そうだ。しかし、彼の顔には「梯子酒は嫌い」でないと書いている。道の右側に見覚えのある工場が見えてきた。酔いは醒め始めていて、少し寒さが感じられる。彼は右に指示器を出して、国道からB&Bが並んでいる側道に入った。彼に礼を言って、車を見送りながら「ク−リ−パ−クは印象に残る。それに、アイルランド人に親しみを味あわせてくれた事がなにより嬉しい」と呟いた。一列に並んでいるB&Bの玄関には明かりが灯っていて、低い扉は開いたままになっている。鍵で入り口のドア−を開けた。静かな廊下の奥からオ−ナ−の家族の声がかすかに聞こえてくる。階段の上の天井で、シャンデリアが明るい光を放っている。白いドア−を開けて部屋に入り電気を付けた。「シーン」と静まり返っている。荷物を下ろすと急に眠たくなり始めた。「風呂」から出ると疲れの為ぐっすりと眠ってしまった。
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